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| 2003年冬お元気ですか 第19号 2003年 1月 |
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医事課長 鈴木俊明
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| 総延長33.7km、上信電車が走る。田んぼの中を、畑の中を走る。子供の頃から |
| 見慣れた状景である。テレビの音をかき消す電車の騒音に腹を立てたりあるいは |
| 出勤時間を確認したり、いつも走っている音が我が家の生活には当然のリズムに |
| なっている。年に数回程度しか乗ることはないが、窓外の景色は変わっても、車両 |
| は新しくなっても、レールを走る“ガタン、ゴトン”は昔と変わらないように聞こえてくる。 |
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| 電車に乗れたのがうれしくて、後ろ向きに座り、飽きることなくずっと景色を見つづ |
| けていた幼かった頃。駅名を順番に正確に言えることで少し優越感に浸った小学 |
| 生時代。子供運賃ではなくなって大人を少し意識をし始めた中学生の頃。 |
| 吊革なしでは立っていられない揺れに下駄履きで立っていたギュウギュウ詰めの |
| 通学電車。頬が真っ赤な女子高生が新鮮に映った帰省のとき。飲んだくれて乗り |
| 込んだ最終電車、これは今も時々お世話になっている。 |
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| 昨年は鉄橋が壊れた。全国ニュースとなった。以前には落石事故もあり不便を |
| きたした人も多かったと思う。我が家でも子供の送迎という思ってもみなかったこと |
| になってしまった。水や電気とまでではないが上信電車の存在の大きさを痛感す |
| ることとなった。 |
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| 近頃では無人駅が増えワンマン運転になり、乗客のいないまま走っていることも |
| 時々見るが、鏑川流域における経済の発展や、生活の基盤として上信電車の存在 |
| は大きなものであったはずである。元々この地域は中山道の脇街道として往来が |
| 多かったが、富岡製糸の建設後は更に交通が頻繁になったことから、明治6年に |
| 現在の埼玉県本庄市から乗合馬車が走ったのが上信電車が走ることとなった発 |
| 端である。 |
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| 明治30年に高崎・下仁田間が上野鉄道として全線開通となり、当時は軽便鉄道 |
| という蒸気機関車が客車と貨車を牽引し、高崎・下仁田間を2時間30分かかって |
| いた。真偽はともかく、乗り遅れても走っていって次の駅で乗れたなどという話も |
| ある。その後大正12年に電化となり上信電気鉄道と改めた。輸送量は昭和41年を |
| ピークにして年々減少しているとのことである。 |
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| 懐かしいという言葉にはきりがない。1ヵ月もストライキが続いたり、日本一高額 |
| の運賃という評判がたったり、正面衝突事故のときには救急入口でストレッチャー |
| を用意して待っていたこともあった。今でこそ名を知られるようになった電気機関車 |
| デキ1が、独特の警笛を鳴らし10両ほどの貨車を引いていたり、日曜日には東京 |
| 直通の国鉄(現JR)の4両編成が乗り入れてもいた。ポケットの中で存在感のある |
| 厚い切符もまだある。いろいろな情景を思い出すたびに自分もそれなりに年輪を |
| 重ねてきているのかなと思うのは少し悔しいものである。 |
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| 新幹線から0番線ホームの薄暗い灯りの中に乗客を待っている上信電車が見え |
| ると、喧騒から解放されたように何故かホッとする。そんな気持ちにさせてしまうの |
| である。 |
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| 副管理者兼院長 柴山 勝太郎 |
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| 最近、高齢化の進行と食生活の変化で前立腺がんの患者さんが増えています。 |
| 昨年の暮、天皇陛下が年明けに前立腺がんの手術を受けられるというニュース |
| を聞いてびっくりしました。自分の専門分野なので関心を持たざるを得ませんが、 |
| 昭和天皇のご病気の時のことを思い時代の変遷を感じます。前立腺がんは高齢 |
| 者に多く、進行が遅いうえホルモン療法がとても良く効くため、ホルモン剤による |
| 治療が多く行われます。しかし、最近では手術成績が非常に良いことがわかり、 |
| 比較的年令の若い(70才以下)患者さんは手術を受ける人が増えています。 |
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| 医療技術の進歩にはめざましいものがありますが、一人でも多くの患者さんが |
| その恩恵を享受できる体制をつくるのが自治体病院の役割と考えています。 |
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